第二次上海事変
1937年(昭和12年)8月13日からの中華民国軍の「日本租界」への攻撃に端を発する日本軍との軍事衝突。
盧溝橋事件(7月7日)により始まった華北(北支)での戦闘は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾した。いったんは停戦協定が結ばれたものの、7月25日の廊坊事件で停戦が破られると、26日の広安門事件で日本人に犠牲者が発生し、29日の通州事件では民間人を含む230名が虐殺されたことにより、武藤章や田中新一ら拡大派が、石原莞爾や河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。この事件以後華中(中支)において交戦が拡大することになった。
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【WW2】「仮に枢軸国が勝利してたら、日独は冷戦状態になってたのかな?」
「日独伊って、なんだかんだ言って現代の模範国家じゃね?」