英紙「原爆を作った偉人、オッペンハイマー」

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ロバート・オッペンハイマー(1904年4月22日 – 1967年2月18日)
アメリカ合衆国の理論物理学者。第二次世界大戦中のロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られる。 世界で最初の原爆を開発し、大日本帝国の広島市・長崎市に投下されることになった。原爆による広島・長崎の惨状を知った後に水爆の開発に反対したことを問題視されていた。私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯にわたって抑圧され続けた。

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「知らなかった#」199年の東海村臨界事故に海外が激怒。

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東海村JCO臨界事故

1999年9月30日、茨城県那珂郡東海村にある株式会社ジェー・シー・オーの核燃料加工施設で発生した原子力事故(臨界事故)。核燃料を加工していた最中、ウラン溶液が臨界に達して核分裂連鎖反応が発生し、この状態が約20時間持続した。これにより、至近距離で多量の中性子線を浴びた作業員3名中、2名が死亡、1名が重症となったほか、667名の被曝者を出した。JCO側が事故防止を重視した正規のマニュアルではなく「裏マニュアル」を作成して作業を行うなどの杜撰な管理を行った上、事故前日より作業の効率化を図るためその「裏マニュアル」からも逸脱した手順で作業を行っていたためであった。 

その瞬間、中性子線とガンマ線が大内さんらの体を突き抜けた。染色体が破壊され、さまざまな臓器が障害されて、大内さんは事故から83日目、篠原さんは211日目に死亡。日本では初の被ばく事故による死者だった。
あれから20年経っても、あの治療を忘れたことがない。
治療の中心となったのは、当時、東大医学部教授だった前川和彦医師(78)である。
「まさか(その後)全身の様子があんなふうになるとは誰も思わなかったです。大内さんは意識もしっかりしていた。水泳で全身がちょっと日焼けしたかな、くらい。顔はちょっとむくんでいたけど、どこが悪いの、という感じでした。一日一日、驚きの変化でした。血液の液体成分が血管の外に出て失われ、体がむくむ。肺に水がたまり、酸素の取り込みが悪くなって、4日目ごろ、昼夜逆転の不穏状態に。採血され、胃の検査をされ、『モルモットみたいね』という発言が大内さんから出てきました。でも、話をしたのは最初の3~4日くらい。その後は人工呼吸管理が必要となり、持続的に鎮静薬を投与し、意識をなくしました。急性被ばくの患者なんて誰も見たことがない。皮膚の様子は刻々と変化し、いろんな症状が出てくる。(皮膚が再生されず)身体の表面から大量の体液と血液が失われ、それに大量の下痢。終わりのほうでは、毎日1万cc以上という量の輸液です。篠原さんの被ばく線量は大内さんより低かったのですが、211日と長期に生存されたので、皮膚や皮下組織がゆっくりと変化し、胸・腹・手足の皮膚は鎧(よろい)のように硬くなりました。新しい細胞をつくる皮膚の幹細胞もやられ、最後は本当に筆舌に尽くしがたい様子でした。」
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